自分のことをもっとも理解してくれている、と思っていた人からの拒絶はやはりショックなものである。
それがどういうことか、というと、おそらくこんな感じ。
「自分を理解してくれているのだから、その拒絶はとりもなおさず、自分がダメであるということである。」
「自分を理解してくれていたというのは幻想で、そのイメージで見ていた相手の像は自らが作り上げたまがい物である。」
という、二つの思いが交錯していて、そのどちらも辛いことだが、その板挟みになることは、さらに混乱をもたらす。
自分を傷つけるのは、常に自分である。
自分はまったく害虫のようなものだ。
たくさんの人を傷つけてきた。
たくさんの人を苦しめてきた。
たくさんの人を裏切ってきた。
かかわるものすべてを害してきた。
誰でも誰かに迷惑をかけながら生きているのだ。
そんな言訳けなど役に立たないくらいに。
その代償に何を得るわけでもない。
ただ傷つけるだけだ。
そしてその爪だか牙だかは、同時に自分をも害する。
だれも喜ばない。
だれも褒めない。
だれも得しない。
だれも。
誰を傷つけたって?
ばかばかしい。
お前の爪などカスリ傷ひとつ、つけちゃいない。
お前の牙など、どこにも届いてない。
そんな力などお前のどこにも、ありはしないのさ。
冗談じゃない。
うぬぼれるのもいい加減にしな。
例えるなら、ずっと刺さってた刺が抜けたようなものか。
異物のため、いつまでも滲んでいた傷も、しばらくすればすっかり癒えるだろう。
刺はいつのまにかすっかり腐って、ぼろぼろっと崩れた。
異物感の消えた傷跡は、最初ふっと力が抜けたような柔らかな感触をもたらすが、すぐにじくじくと痛み始めるはずだ。しかし、これは恢復のきざしでもある。
わずかに残っているかもしれない欠片も、やがて排出されてくるはずだ。
脱。
手も足もでない、とはこう言うことか、と思う。
気持ちばかりが焦れるけど、何の行動を起こすこともできない。
あらゆるチャネルは閉ざされていて、
いや、その存在すらが見えなくなっていて、
すでに架空であることと、違いがなくなっている。
たしかにあった、という記憶だけが、かろうじてそれを架空と区別しているが、
これさえもやがて、あやふやになってゆくのか、と思う。
あらゆるチャネルを開いておくことしかできない。
いっそ何もかも消してしまおうかという衝動もなくはない。
憎んでいるのか、愛しているのか、それさえもわからない。
それとも、それはおなじことなのか、とも思う。
物理世界の構成。
かつて良く出演していた店で久しぶりにライブすることになった。
準備にてまどって時間がどんどん押していたが、なんとなく好きにやっていい雰囲気で、ゆったりした気持ちでステージに立った。
ステージとはいっても、客席の一部がステージになっているだけで、明確にここがステージ、という境界はない。
今日は長机を挟んで、客と向きあう形でのライブだった。
ラインからどうしても音が出なかっので、今日は生音でやることにした。
準備を終えて、ライブを始める。
いつものように、目を閉じて音に浸ってゆく。
一曲目の後半に、誰かが近くに来て、身体に触れてくる感じがした。それがとても気持ち悪かった。
演奏を終わって目をあけてみると、客のひとりが悪乗りして、全裸でステージに上がってきていた。ものすごく不快で、腹が立って、近くの椅子を投げつけた。
客席からは「そりゃそうだよね」というささやきが聞えてきた。
興奮したまま客席をみると、なんと全員全裸になっていた。
それをみて、なんだか楽しくなってきた。
全員全裸でのライブをやってみたいと思っていたことを思い出した。
思いがけず実現して、不思議な感覚につつまれていた。
気がつけばもう長く更新していない。
年末〜春にかけて新しいことを始めて猛烈に忙しかったためだろう。
時間ができて暇になるとろくなことを考えないものだが、
つまるところ、ろくでもないことを考えていたのかもしれない。
しかしながら、その、ろくでもないことを愛しているのだから仕方ない。
オレオレツアー計画は頓挫しかかっているが、消滅したわけではない。
ここにきて問題のひとつが解決しそうで、一歩前進。
ツアーすることが目的ではない。
では何が目的かといえば、実はよくわかっていない。
「なぜライブをやるのか?」
という問いに、いまだに答えられないのと同じで、この問いかけにも答えることができないでいる。
自分の行為の目的を明確に言明できる人がいる。すごいことだと思う。
さらに、発声や撥弦など、自分の肉体の動きを言語的に意識できている人がいる。すごいと思う。
なぜ? の問にはやはり答えがない。
夜中、奇妙な音で目が覚めた。
ここ1〜2年の間、ときどき鳴っている音。パイプを振動させたような、椅子を引くような、「ぷぅんっ」という音。
それが、とても鮮明に、まるで部屋の中のすぐそこで鳴っているような音で聞こえた。
2〜30分後に、もう一度聞こえた。
考えていたら、すっかり目が醒めてしまったので、そのまま仕事を始めた。
このような奇妙な音は、20年くらい前に住んでいたアパートでもあった。
そのときは、鉄パイプで壁を叩くような音。「こーん、こーん」と 数回連続して聞こえていた。これも数年続いた。
何か合理的な説明が、きっとあるのだろうと思うが、何か不思議なことが起こっているといいな、という思いも少なからず、ある。
UFOも、超能力も、幽霊も、信じていないが、認めるにやぶさかではない。
なにかヘマをやらかして、謝るとき。
たとえば、待ち合わせに遅れてしまった。
たとえば、借りていた本を破いてしまった。
謝るときの心の動きは、大きく二つのタイプに分かれる。
ひとつは、相手に対して申し訳ないと思いやる気持ち。
ひとつは、ヘマをしでかした自分を残念に思う気持ち。
後者の気持ちが大きく支配してる人が多いように感じる。
そこには他者は存在せず、思うことは自分のことばかり。
謝罪しなくてはならない状況を引き起こしてしまったことを悔やむ気持ち。
反省は、相手に対してではなく、自分に対して行われる。
見かけ上の「謝る」という行為に差異はないので、区別することは難しい。
感じることしかできない。
逆に、何か素晴らしいと思うことを成し遂げた場合、
本来、それがどんなに素晴らしいかを決めるのは受け手である。
しかしながら、そういう人の中には他者が存在しないため、自分が素晴らしいと思ったものは素晴らしいのである。
それが評価されなかった場合、何故評価されないのか、と憤る。
あるいは、落ち込む。どちらも、同じメカニズムである。
一方、常に他者の存在を認識している人は、それを評価するのは他者であることを自明的に知っているため、評価されなかったとしても、それは大した出来事ではないと思うばかりだ。
他者の評価を必要以上に気にかけないため、自分のやりたいことを自由にできる。
自分のことばかり思う人は、むしろ自分のことをできないでいるのである。
なじみのバーが新装開店した。以前の数倍の広さで、とてもオシャレでキレイな店になった。
お昼から営業するようになって、ランチも始めたようだ。
ある人とそのバーで待ち合わせして、ナシゴレンをつくってもらうことになっていた。
ナシゴレンとは、なにかの植物からとれた白いツブ――コメのような形で大きさを数倍したようなツブ――を大量にあつめて、よく洗ってから 皮のブーツに詰め込んで乾燥させて、さらにどうにかしてつくるらしい。
自分の履いてきたブーツに詰めたところまでやって、その子がいなくなってしまったので、そのあとどうすればよいのかわからない。
自転車置き場を見に行くと、ツブツブの詰まったブーツが置いてあって、彼女の自転車はなくなっていた。
しかたないので、バーへ戻ってランチを食べようと思った。
メニューを見ると、よくわからないものがずらりとならんでいて、どれにすればいいかわからない。
近くの男性が食べていた、ざるうどんに 赤いソースのかかったものが美味しそうだった。
姉と妹がいた。
なんとなく、さばさばした感じの会話。
暖かい雰囲気。
それぞれとの関係は、個々のもので、どんなに仲の良い三人であっても関係を共有することはない。
ひとりひとり、との関係。それが基本。