「9(Nine)」

        ――噂――

「ねぇ、9チャンネルの噂、知ってる?」
「なに? また、ネット掲示板の話? あたし、ネットのことよく知らないんだよね」
「ネットじゃなくて、電話なんだけどね。夜、家にひとりでいたときに、携帯かかってきたんだって。でも、出るのにちょっと手間取っちゃって、出たら、ちょうど切れちゃったのね。そんで、着レキみたら、9だけだったんだって」
「どういうこと? 九件あったの?」
「そうじゃなくて、相手の番号が、ただの9だったのよ」
「なにそれー? そんなの、あるの? 短縮じゃないの?」
「短縮だったら、その人の名前出るじゃん、登録してんだもん」
「あぁ、そっか。へー、変なの。そんなこと、あるんだねー」
「これで終わりじゃないのよ。その子も、変だなーって思ったけど、あんまり気にしてなかったのね。そしたら、夜中、寝てるときに、急にワンセグがついたんだって」
「バカだねー。タイマーセット間違えたんだね」
「違うって。ちょっと、黙っててよ、もぅ。そんで、切ろうとしても、切れないのよ。なんか、変な声とかも流れてたんだって。これって、怖くない?」
「ふーん……。都市伝説みたいなもん?」
「違うって、そんなんじゃなくて、ほんとの話なんだってば。三組にアカネっているじゃん? あの子のツレが言ってたらしいんだけどね」
「へー……。そんで、その子、どうなったの?」
「そこまでは、聞いてないんだよね……」
「あはは、なによ、それ。結局よくわからないんじゃん」
「あ、でも、そのワンセグ、あとで見たら、9チャンネルだったんだって」

(苦しい時や、辛い時、ある景色が目に浮かぶことがある。それは、なつかしい場所や、あこがれの風景、記憶と願望の合成によって作られた、「観たかった景色」である。それは、何度も夢に現れる、といった繰り返しによって、知らない場所なのに、なにか懐かしい、といった、安堵をもたらすことがある)


        ――景色――

 気がついたら、見知らぬ部屋にいた。
 床にはカーペットが敷いてあり、掃除がよく行き届いている。白い壁は、少し黄ばんでいるが、これもいい感じの風合いを醸している。部屋の中央には、モダンな応接セットが置いてあり、テーブルの上に飲みかけのコーヒーカップが二つあった。ベランダ側には、洋風にデザインされた障子がはまっていて、モダンな部屋によくマッチしている。ほぼ壁全面が障子になっていて、やわらかい光をふんだんに取り込んでいる。
 障子を開けてみると、緑と青が飛び込んできた。すぐ下には川がうねっていて、両岸には潅木が並んでいる。川の中ほどに大きな岩が沈んでいて、その傍らに、大きな魚が泳いでいた。底が見えるほどの透明度をもった川の水は、空の碧と、林の緑を映して、透明感のある深いエメラルドグリーンで、とても美しい。人の姿はまったくない。手付かずの自然、といった風情だ。
 悠然と泳いでいる大きな魚影を見つめていると、心の底からわくわくする気持ちが沸き上がってくる。ここで、釣りを楽しんだら、どれほど楽しいことだろう。釣りをやめて、もう二十年近くたつが、いまだに、水辺にたつと、そわそわしてしまう。どうして釣りをやめてしまったんだろう。子どもの頃から釣りが大好きで、年老いても、どこかの静かな川べりで釣り糸を垂らしていることだろう、と、思っていたのに。仕事が忙しくて、たまの休みといえば、ゴルフに付き合わされて、ゆっくり釣りを楽しむ暇がなかったのは確かだ。しかし、無理すればどうにでもなっただろう。要するに、情熱がなくなった、ということだろう。近くにいれば、わくわくする程度には好きだけど、無理してまで、やろうと思わなくなってしまった、ということだ。すこし寂しいことだな。
 それにしても、あのサイズだと、よほど頑丈なタックルでないと、太刀打ち出来ないだろう。

「いかがですか。お気に召しましたか」

 突然、声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。こんなことで、びくっとしてしまう、胆力のなさを、我ながら残念に思う。もっと、どっしりしていたいものだ、と思う。
 声のした方へふりかえってみると、応接セットの側に、若い男が立っていて、同じように外を眺めていた。髪は乱雑にみえるが、そういうスタイルなのだろう。なかなか様になっている。チェックのネルシャツに、チノパン、という、多少時代遅れなファッションだが、これもなかなか、絵になっていて、立ち姿は涼しげで、まるでどこかのファッション雑誌のひとコマのようだ。ただ、その微笑が、どこか人を見下したような、嫌味のある笑みで、これが全体の印象をだいなしにしている。

「これが、あなたがずっと観たかった景色なんですね」
 どういう意味だろう? 俺が観たかった景色? なんのことだ?
「いまのうちに、もっとよくご覧になったら、いかがですか」
 この声は、どこかで聞いた気がする。そういえば、この男のことを、俺は知ってるぞ。誰だったか。どこで会ったのか。思い出そうと記憶を手繰るほどに、霞がかかったようにぼんやりしてくる。
「どうしました? ほら、もうすぐ、消えてしまいますよ」
 言われて、反射的に外を見ると、景色がさっきより色褪せているような気がした。目を凝らせば凝らすほど、焦点がぼやけてゆく。どうしたことだ、意識が保てない。
 途切れがちな意識のなかで、景色が徐々に色褪せてゆくとともに、うっすらとビル街が見えてくる。映画なんかの画面の切り替えを見ているようだ。クロスフェードというやつだ。俺はいったいどうしたんだ。ここはいったい、どこなんだ。
 景色がすっかり切り替わるのを待たず、再び、眠りに落ちていった。

(幼児の体温ほど、心を癒すものはない。小さな手で、しがみついている子に、安堵を与えている、という実感と、頼られているという、ぬくもり。自分が幼児になって、誰かに守られたい、という気持ちの表れでもある)


        ――子猫――

 仕事が早く終わったので、近所の公園で何をするでもなく、のんびり過ごしていた。子供たちが遊ぶのを眺めたりしながら、ぼんやり過ごす時間は、大好きだ。夕暮れ時にこんな風にすごせるのは、ほんとうに久しぶりである。
 さてそろそろ、と、飲み終えたコーヒーの空き缶をゴミ箱に捨てようとしたとき、どこかから、子猫の泣き声が聞こえてきた。植え込みの中から聞こえてくるようだ。最近はこの辺りでも、猫が増えて困っていると聞いたことがある。猫に餌をやるな、と言うことだ。しかし、聞こえてくる泣き声は、どう聞いても子猫のもので、助けを求めているように聞こえて、どうも、そのまま立ち去ることができなかった。
「チッチッチッ」
 と、呼んでみると、がさがさ、と音がしたあと、しばらくして、反対側から、また泣き声が聞こえる。警戒しているのか、どうも、あまり人に慣れていないようだ。捨てられたのか、あるいは、親猫とはぐれたのか。親を探して泣いているのだろう。
「チッチッチッ」
 と、もう一度呼んでみると、やはり、逃げるように反対側へ移動してから、泣き始める。餌で釣ってみるか、と、夕飯にと買ってきた唐揚げ弁当から、唐揚げをひとつ取り出してもう一度呼んでみた。それでも、やはり、逃げていって、離れた場所で泣き始める。さっきよりは、離れていないような気がする。心なしか、こちらを意識しているようにも感じる。何度も繰り返しているうち、距離は徐々に近づいてきて、ついに、姿の見えるところまできた。そこで、唐揚げを少し小さくちぎってから、地面に置いて一歩下がった。子猫はおずおずと近づいてきて、肉片を食べ始めた。食べ終わると、こちらを見上げて、にゃあ、と一声鳴いた。もうひとつ唐揚げを、今度は、手に持ったまま近づいてみた。子猫は逃げずに、手から、唐揚げを食べ始めた。
「よしよし、じゃあ、俺と一緒にくるか?」
 と、抱き上げた。子猫の一匹くらいは、なんとかなるだろう。うちで飼うことにしよう。上着の中に抱いて、歩きはじめたとき、ふと、違和感を感じた。確かに、子猫を抱いたはずだ。なのに、いま抱いている感触は、あきらかに、人間の赤ちゃんのようだ。
 ちいさな手で、俺の身体にしがみつく感触がある。え!? と思って確認すると、やはり、子猫だ。そりゃそうだ。疲れているのかもしれないな。どうも、最近変なことが多いな。
 俺の腕のなかで、ときおり動く、赤ちゃんの感触を感じながら、子猫を抱いて歩いていた。

(取り返しのつかないことを、しでかしてしまうかもしれない、という、自分に対する恐怖は、自分を完全には律することができない、と、知ることである。それは、肉体制御のみならず、思考においても、である。思うことは止められない、と、知ることによってのみ、自らを律することができるのである)


        ――エレベータ――

 今日はすっかり遅くなってしまった。仕事でトラブルがあったに違いないのだが、もうよく覚えてない。忙しすぎて、昼間なにしてたか、思い出せないことが、多くなってきた。すこし、やばいのかもしれないな。
 マンションのエレベータに乗ってみて驚いた。天井の板が垂れ下がってきて、頭に当たりそうになっている。改修工事がやりかけなのか。なんと中途半端な仕事をするものだ。これじゃ、危なくてしかたない。壁の上のほうには、デスマスクのような気味悪い面が飾られている。それも、三つも。そのうちのひとつは、すでに人間の顔には見えないくらい、ゆがんでいて、苦痛に満ちた表情が重苦しい空気を作り出している。なんと趣味の悪いものを飾るんだ、ここの大家は。今朝はなかったはずだから、今日の工事のときに取り付けたのだろう。それにしても、きれいに取り付けてある。壁との接合がまったくわからない。まるで、壁の向こうから、顔を押し付けてプレスしたみたいだ。まさか、本物の人間を押し付けてるわけじゃないよな、と、確認したくなるほど、リアルな雰囲気だ。
 俺の部屋のあるフロアについて、ドアがあいた。このフロアには、俺の部屋しかないから、ドアがあいたら、もう、自分の部屋みたいなもんだ。廊下にもいろいろと私物をおいてある。規約違反だが、誰にも迷惑がかからないので、大家も何も言ってこない。
 エレベータで一緒になった小さな女の子が、ドアが開くなり走りだして、珍しそうに廊下に置いてあるものを眺めている。知らない子だが、人懐こい子で、エレベータに乗っているあいだ、ずっと俺の手を握りしめてうつむいていた。例の面が怖かったのかもしれない。うろうろしていて廊下の物置の上にいた猫を見つけると、
「あー、ねこちゃんだー! ねこちゃん、ねこちゃんー」
 と、飛んでいってしまった。あとで送っていかなくてはな、と考えながら、玄関へと向かうと、アルコープに男が立っていた。知っている男だ。知っているもなにも、いつからか、俺は、この男と一緒に暮らしているようだ。ようだ、というのも変だけど、どうも、現実感が希薄なのだ。そう、最近、何事においても、この、現実感が希薄、という感覚がつきまとう。

「おかえりなさい。お疲れ様」
 と、男。それを無視して、ドアを開けようとしたとき、ドアの横に、タンスが置いてあるのに気がついた。俺のタンスだ。
「なんだ、これは? なんで、こんなところに俺のタンスが出てるんだ!?」
 少しイラついた声で言った。工事の都合で、どうしても出さざるを得なかったという。いったい、どんな都合で、こんなことになるのか、意味がわからないが、なったものは、まぁ仕方ない。
「だいたいお前は何してたんだよ。人が一生懸命仕事しているあいだ、ずっと家にいて、ぼーっとしてるだけか!?」
 言い募るほどに、イライラが増してくる。何をこんなにイラついているのだろう。
 男は、例の人を見下した感じの笑みをうかべると、
「ふふふ。仕事、仕事、と仰いますが、いったい、あなたは、どこで、どんな仕事をしているのですか?」
 その言葉で、イライラは頂点に達し、爆発しそうになった。
 なんだって!? 俺がどこで、どんな仕事をしてるか、だって!? ひとを馬鹿にするにもほどがある。いったい、誰のおかげで、ぼんやり過ごせてると思ってるんだ。俺の仕事は……、あれだ……、ほら、決まってるじゃないか……、今は興奮してて、うまく思い出せないけど……、
「どうしました? 思い出せないのですか?」
「うるさいっ! 答えたくないだけだっ!」
 いちいち、癇に障るやつだ。まったく、頭にくる。

 とりあえず着替えを出そうと、引き出しを開けかけると、男がすっと閉める。次の段を開けると、また、すぐにすっと閉める。その下の段も、同じようにすっと閉める。四段目の引き出しに手をかけると、そっと俺の手を上から抑えた。男の方を見ると、男はゆっくりと、首を振った。
「開けさせたくないのか?」
「そうです。でも、どうしても、と仰るなら、どうぞ開けてください」
 その言葉に何やら忌まわしいものを感じて、どうしても、それより下の引き出しを開けることができなかった。

 そういえば、少女はどうしたろう、と、廊下をのぞいてみた。廊下に少女の姿はなく、物置の上では子猫が居眠りしている。エレベータの音はしなかったと思うが、帰ったのだろうか。なんの気なく、廊下の端から下を見てみると、少女が倒れているのが見えた。
「えっ……、そんなっ! そんな、ばかなっ! どうしてっ!?」
 猫と遊ぼうとして、物置に上って、誤って、落ちたのか。びくん、びくん、と痙攣している様子がみえる。もしかしたら、まだ助かるかもしれない。救急車を呼ばなくては。警察も呼ばなくてはならない。どうしてこんなことになるんだ。
 男がいつの間にか後ろに来ていて、俺の肩にそっと手を置いた。
「今日は、こういうことですか。そろそろ時間ですね」
 何を言っているんだ、こいつは!
「ばか! はやく……、はやく、救急車を……!」
 怒鳴りながら、意識が遠のいてゆくのを感じた。
 上の階から、人がおちてゆくのが見えた。えっ、と思う間もなく、さらに人が落ちてゆく。みな子どもだ。何人もの子どもが、折り重なるように降り積もってゆく。
 なんだ……、これは……。
「大丈夫ですよ」
 という声は、どこか遠くから聞こえてきたような気がした。

(人と人の関わりは、原則として、一対一である。そこに、第三者の入り込む余地はない。さらに言えば、その相手すら、実際には自分の中に投影した影であり、その意味において、関係性は、自分のなかで、完結している)


        ――由布子――

 なんとかしなくてはならない。いったい何がおきているのかわからないが、異常であることはわかる。俺は狂ってしまったのか。それとも、狂った世界に迷いこんでしまったのか。いずれにせよ、最悪の状況だ。
 誰かに助けを求めようと、携帯に登録してある番号に片っ端から電話してみたが、誰にもつながらなかった。なんとか、誰かと話したくて、デタラメに番号を押してみたりもしている。ごくまれに誰かに繋がることがあったが、いつも、つながった途端に切れてしまった。
 あの男と出会ってからだ。あれからおかしくなってきた。あいつはいったい、誰なんだ。俺は確かに、あいつのことを知っていると思う。しかし、まったく思い出せない。まず、あいつの正体を突き止めることが先決なのか。どうすればいいのか、まったくわからない。
 毎日、決まった時間に仕事に出かけて、決まった時間に帰ってくる。日常はまったく問題なく流れている。ただ、その間の記憶がまったくない。家を出たあたりから、意識が曖昧になってきて、気がついたら、また帰ってきている。そんな毎日だ。
「どうしました。近頃はいつも考え事をなさってますね。別れた彼女のことでも考えているのですか?」
 別れた彼女? 別れた彼女だって?
 そうだ、どうして思い出せなかったのだろう。四ヶ月前に突然別れを切り出されたときに、隣に座っていた男だ! こいつは、俺から由布子を奪った男だ! なんてことだ、そんな奴と、なぜ一緒にくらしているんだ。いや、それより、由布子はどうなったんだ? こいつとも別れたのか?
「違いますよ」
「違う? じゃあ、まだ由布子とつきあってるのか? それじゃあ、由布子はどこにいるんだ?」
「いやぁ、そうではなくて、ですね、私は、あなたが思っている人ではありませんよ」
「人違いだというのか!? そんなわけはない! お前の顔は、はっきり覚えているぞ!」
 つい、さっきまで思い出せなかったことは、棚にあげているな、と少し思った。
「私は……、そうですね、言うなれば、九番です」
「馬鹿にしてるのか!? 何だ、それは!?」
「九番です。馬鹿にしているわけではありません。あなたの好きな番号ですよ」
 確かに九は、好きな番号だ。俺の誕生月だ。子どもの頃は、苦しむだとか、苦労するだとか、嫌言を言われたりしたものだが、それだけ、九に対する思い入れは強くなった。
「わけのわからないことを言って、はぐらかそうとしてもダメだ! お前は……、お前は……。由布子を奪った奴のことを、見間違えるものか!」
「ははぁ、では、まぁ、そういうことでも構いませんが。あなたが彼女と別れたのは、あなたが望んだからです。奪われたわけではありません」
「この野郎、開き直りやがったな。盗人猛々しい、とは、このことだ! いったい何の目的で、俺に近づいたんだ! 女を寝取られた間抜けな男を馬鹿にしにきたのか! わかったからには、もうここに置いておくわけにはいかない。さっさと出ていってくれっ!」
「困りましたね、どうも……」
 男の苦笑いを見ると、かっと血がのぼった。こんなに頭に血がのぼったことはない。興奮しすぎて言葉にならない奇声を発しながら、俺はまた、意識が遠くなっていった。

(自分が何を望んでいるのかを、正確に知ることは、極めて困難なことである)


        ――望み――

 拾ってきた子猫は、すっかり大きくなっていた。今ではかけがえのない家族の一員だ。男はあいかわらず居座っている。ずうずうしい奴だ。それを渋々ながらも受け入れている俺も俺だな。由布子がどうなったのか、どうも気になって仕方ない、ということもある。会いに行っている様子もない。どういうことなんだ?
 猫は俺によくなついているが、男にはいまだに警戒を解かないようだ。よく人を見ている。この点をもってしても、こいつがろくな奴じゃないとわかる。今朝なんかも、寝ていてうっかり猫をけとばしたようで、ふとももに深々と噛み付かれていた。ざまあみろ、だ。それほど驚きもせず、痛そうにもしてなかったのが、少しむかついたが。
 風呂をあがって、そろそろ休もうとしていたとき、隣の部屋で男がパタパタと手を振り回しているのが見える。最近よくやっている。手踊りのつもりだろうか。なぜかしら、何か禍々しいものを感じて、いつもあまり見ないようにしていたのだが、今日は、なんとなく見入っていた。何が楽しくて、こんなことをしているのだろう。俺が見ていることを意識してか、今日はいつもより熱心にやっているようだ。
 しかし、これのどこが禍々しいのだろう。よくわからないが、すごく嫌な感じがする。動きが早くて、よくわからないが、何か変だ。しばらく見ていて、わかった。変だ。明らかに変だ。時々、男の腕が三本に見える。いや、確かに三本ある。何だ!?
「やっと、気が付きましたね」
 と、俺の目を見据えて、にやりと笑うと、いそがしく動かしていた手を止めて、こちらに差し出した。その手は、すらりとした、女性の手だった。男は、左手に、女性の腕を持っていた。見覚えのある手だった。
「……こ、殺したのか……!」
 男は黙ったまま手招きした。俺は引っ張られるように、隣の部屋へと歩いた。
 そこには、全裸の由布子が横たわっていた。ただ眠っているようにも見えるが、生きているはずがない。
「……、由布子……、どうして……、こんな……」
 怒りと驚愕と不安と悲しみが一度に襲ってきて、処理しきれずにフリーズしてしまった俺に、男が言った。
「あなたが、望んだのですよ」
 俺が望んだだって!? そんなわけない! そんなはずがないだろう! 俺がどれほど由布子のことを愛してたと思ってるんだ! 別れてこのかた、どれほど辛かったと思ってるんだ。俺はまだ由布子のことを愛している。そうだ。それなのに……、それなのに、俺が望んだ、だって!? こいつは何を言っているんだ!? これまで、由布子をどこに隠してたんだ? タンスか? それで開けてはいけなかったのか?
 だいたい、こいつは、誰なんだ? ほんとに、由布子を奪った男なのか?
 自信がなくなってきた。どうして、俺のことをこんなによく知っているんだ?
「別れたあとも、あなたは、彼女の健康を心配していましたね」
 そうだ。由布子は体が弱くて、すぐに風邪をひいたり、体調を崩したりしていた。何か重い疾患があるのではないか、と、いつも心配していた。別れてからも、ずっと気にかかっていた。
「彼女が健康を害して取り返しのつかないことになりはしないか、と心配するのと、彼女が死んでしまえばいいのに、と望むことは、本質的に同じことなのです」
 何を言ってるんだ? そんなわけないだろ?
「少女が落ちはしないか、と心配するのと、落ちてしまえ、と思うのも、同じことです」
 そんなわけない! こいつは狂ってる!
「悪いことを不安に思う気持ちから発するパワーは、それを願うパワーと同じなのです。結局、望んだと、同じことなのです」
 言いたいことは、なんとなく、わかる。だから、それを実行したというのか?
「わたしが実行したのではありません。あなたが、望んたのです」

 だめだ、やっぱり狂ってる。
 望んだ……だって? ばかな……。でも……。
 絶望的に混乱しながら、俺は、なぜか、妙に納得しはじめていた。そんなはずはない、と、思いながらも、手に、由布子の細い首の感触が、かすかに、よみがえってきていたのだ。男の言葉で、催眠術にでもかかってしまったのではないか。それで、こんな、あり得ない感触を覚えるのだ。しかし、そう思えば、思うほど、その感触は、はっきりしたものに変わってきていた。

――俺が望んだ? 俺が殺したのか? ……そうか、俺は、殺したかったのか……

 手に残る感触が、有無を言わさぬ説得力をもって、襲いかかろうとしていた。
 そうして、俺は、また、白い闇のなかへと、落ちていった……。

        ――9――

 携帯電話が鳴っている。はっとして、反射的に電話に出た。すぐに切れた。直感だ。誰かが、助けを求めている。助けにいってやらなければ。
 着レキには「9」と表示されていた。

 「9」は、孤独な数字だ。常に、あとひとつ足りない。満たされれない数字だ。それが俺だった。いくら与えられても、いつも足りない。そうして、彼女の心を蝕んでゆくことに、俺は気づいてなかった。失うことが怖かった。足りなかったのは、足りないことを受け入れる心だったのかもしれない。
「きみは、ほんとに9だね」
 と、言った彼女の言葉の意味を、いま、そう理解した。
 俺の番号。俺のしるし。そうか、俺なのか。俺だったのか。

 森の見える静かな部屋で、苦しんでいるはずだ。行って助けてやらなくては。行って、すべて教えてやらなくては。この世界からあいつを救えるのは、結局、俺しかいないんだ。
 タンスにあった、ネルシャツと、チノパンを着て、俺は、出かける用意を始めた。